第1章 キツネ
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利口で勇敢なものたち
1940年代のモスクワで名のある遺伝学者としての地位を手にした
その後、ソビエト当局と揉めごとを起こした
19世紀なかばにモラヴィアの修道士グレゴール・メンデルが遺伝の研究を始め、それは近代遺伝学の土台として現在でも認められている ベリャーエフはその遺伝学の枠組みを否認するように命じられたが拒否した メンデリズムと呼ばれるメンデル遺伝学は、当時、世界のほとんどの国では問題になったり論争を呼ぶようなものではなく、実際、正統派の考え方でもあった ソビエト連邦では複数の事情がからまりあって特殊な事態になり、メンデルがブルジョワや反動的な世界観と結び付けられた
ルイセンコがそのための方策を申し出た
標準的なメンデル遺伝学の観点からすると、改良コムギをすぐにも作り出すなんてとうていありそうもない突然変異が生じない限り無理だと考えられる
しかし、ルイセンコは、環境にある種の修正を加えてコムギの遺伝的性質を変異させる事が可能であり、さらにこの遺伝的変異が望ましい形質をもつような方向づけも可能だと提案した
ルイセンコの行った環境操作は「春化処理」と呼ばれている そのせいで、ラマルクの名前には今日まで続く汚点がつけられてしまった
英語圏の進化論者が古くからラマルクに対して抱いている反感を理解するのは難しい
スターリンがルイセンコを優遇すると決めて以来、異議を唱えるものは危険な状況に置かれることになった
ベリャーエフの兄のニコライも遺伝学者だったが、強制労働収容所で死亡した
遺伝型に変異が生じる可能性は、複数の重要な経路で拘束されており、それゆえに広く予測可能であるという法則
ベリャーエフ自身も無傷で逃げ切ったわけではない
モスクワ中央科学研究所動物育種部門の部長だったが、1948年に職を追われた
10年間にわたり、動物生理学を隠れ蓑にしてメンデル遺伝学の研究を密かに続けていた
1959年にモスクワから遠く離れたシベリアの研究所でベリャーエフはソ連科学アカデミーのシベリア支部の立ち上げに関わり、また、同支部の細胞学遺伝学研究所の所長にもなった
この研究所は古典的遺伝学および分子遺伝学において世界的な研究所の拠点になった
家畜化
ベリャーエフはメンデル遺伝学の擁護者であるだけではなく、ダーウィンおよび進化の「現代的総合」の強力な支持者でもあった 分野横断的に進化学を中心に生物学を統合しようとした歴史的な動き
特に、ストレスの多い条件下での進化に興味をいだいていた
環境が急速に変化するときや、新たな生息環境に移住する際に起こるような進化
ベリャーエフにとって家畜化の過程はこの種の進化だった
ここでいう新たな生育環境とは人間が創り出した環境のこと
家畜化がどのようにして起こるかについて、ベリャーエフは一つの理論を考えていて、当初はオオカミの家畜化に注目していた 現代のイヌの品種が祖先であるオオカミとどのように違っているのか もっとも明白なのは体のサイズ
ある意味でそれ以上に顕著なのは骨格の変化
骨盤と肩には様々な変異が見られる
脊椎は長くなったものもあれば短くなったものもある
脊椎の一部である尾は特に人間の操作の影響を受けやすいようだ
野生のオオカミには決して見られないタイプ
オオカミの尾はまっすぐ後ろに伸びる
頭骨の変異は幅広く、オオカミのとは似ても似つかないものまで出現している
最右翼はペキニーズやパグで、頭骨があまりに短くなったために呼吸に異常をきたしかねないほど また頭骨には、長さだけではなく形にも様々な変化が見られる
毛皮
多くの犬種に見られる被毛の色もまったくオオカミらしくない オオカミの毛色は白色に近いものからダークグレーまで見られ、実はかなり幅広い
イヌではこれにさらに別の色味が加わっていて、特に黄色・赤色・茶色方面の色味が豊富
注目すべきは、様々な品種に色の組み合わせが見られることで、特に白と黒のぶち模様が面白い
知られている限り、野生のオオカミでそんな模様のものは存在しない
垂れ耳も家畜化の特徴
ドーベルマン・ピンシャーなど、一部の品種では野生型の外見が望ましいとされ、垂れ耳を部分的に切除(断耳)してオオカミのような立ち耳にする オオカミとペキニーズは、少なくとも身体的な違いと同じ程度に行動面でも違いが見られる
オオカミは吠えない
オオカミは仮に機会があったとしても人間の膝には乗ってこないし、許可されるのを待ったり、尾を振って親愛の情を示したりもしない
尾を振るのは明らかに家畜化によって現れた行動だ
もっとも根本的な違いは、オオカミはイヌのように人間の意図を読み取れないということ
何かを指差したとしたら、オオカミ側の「理解」度はせいぜいネコと同じくらい、つまり全然わかってくれないだろう 生まれたときから人間が育てたとしても、人間の許可を待つこともない
私たちが何にせよイヌを訓練することができるのは、人間側が優位にあることをイヌが認識しているからにほかならない
こういった身体的な形質や行動面での形質は…
それぞれ独立に変化してきたか
家畜化による形質の一部は他の形質を変化させたことによって付随的に生じた副産物か
ベリャーエフはこちらにかなり傾倒していた
単一の遺伝子が複数の形質の発現に関与するという現象 ということは、ある一つの形質を対象として選択を行えば、他の形質に影響が及ぶこともあるわけだ
だからこそ、進化生物学では「〜を対象とする選択(selection for)」と「〜の選択(selection of)」とを区別するのである
この区別を怠るという過ちは適応主義者によく見られる
「Aを対象とする選択」ではAという形質自体をターゲットとして選択を行う
一方、Aを対象とする選択の結果、Bという他の形質にも変化が現れた場合が「Bの選択」である
ベリャーエフは、イヌの形質の多くは、なにか他の形質を対象とする選択が行われた結果、副産物的なセットとして現れたのだと考えていた
この考えをテストするために、ベリャーエフは家畜化過程を再現する実験に着手した
実験対象としてはイヌ化のメンバーであるギンギツネを選んだ 実験に使われたキツネはエストニアの養殖場から手に入れた
30匹の雄ギツネと100匹の雌ギツネ
養殖場にいた数千匹のキツネをテストして、従順な個体を選びだした
人間が近づいても恐れたり攻撃性を示したりしないでいられるという形質
各世代のうち、従順性の高いほうから順に、雄は5%、雌は20%の個体だけを選んで掛け合わせ、次の世代を作らせた(Trut, 1999) 第4世代になると、子ギツネの中には、世話係が近づくと尾を振るものが現れた
普通のキツネには見られない行動
第6世代では、一部の子ギツネは積極的に人間に接触したがった
尾をふるだけではなく、くんくん嗅いだ
世話をする人の顔をなめさえした
元のキツネ養殖場と同じように、子ギツネたちと人間との接触が最低限に抑えられていたことを考えると、これはますます驚くべきことである
尾を振ったり顔をなめたりする子ギツネは「エリート」カテゴリーに入れられた
エリートの比率は世代を経るごとに増加してき、第13世代では49%に達していた
ペットとなったキツネたちの振る舞いは、イヌとネコの中間のようだと言われている
少なくとも行動面での変化と同じくらい注目すべきなのは、それに伴って現れた身体的な変化
キツネの被毛に奇妙な変化が見られた
ギンギツネの被毛は銀色だが、それに茶色の斑紋が混じるものが現れ始めた
黒地に様々なサイズの白い部分の混じる斑模様になったものもいた
家畜のウマやウシ、ヤギなどによく見られるように、額に白斑のあるものも現れ、しかもそれが増えていった
垂れ耳や巻き尾も現れ始めた
実験が進むと骨格にも影響が現れ、足の骨と尾の骨が短くなった
鼻面も短くなった一方で、頭骨の横幅が広がった
イヌのように顔の幅が広くなったのである
繁殖に関する生理的な変化も現れた
ギンギツネは野生でも養殖場でも繁殖は年に1回、日長が長くなり始めた頃(1~2月)に行われる
従順なキツネでは繁殖期が長くなり、1年に2回繁殖するものもいた
こういった一見無関係な行動、生理、解剖学的な変化は、従順性を選択した結果として生じたものだということを思い出そう
家畜化の特徴はセットになっているというベリャーエフの見解は、強力な証拠を得た
もし複数の形質が発生・発達過程でリンクしている場合は、それぞれに対していちいち突然変異が起こる必要もない。だが、この場合は、突然変異も起こっていないかもしれない。 新たな形質がもたらす「不安定化選択」
ベリャーエフが、家畜化を極端で困難な条件下で起こる進化の一例だと考えていたことを思い出そう
進化に関するアイデアの多くは、ダーウィンまで遡ることができる
2. その時点での条件に最適な表現型をもつ個体は、より多くの子孫を残す――適応度の違いの原理 3. 適応度の差をもたらす表現型の変異は子孫に伝えられる――遺伝の原理 現在では、自然選択にはいくつか異なる形があると認識されている(以下はそのうちの2つ)
単純に適応度の低い変異をもつ個体が消滅するというもの 環境に適応した形質をもつものが生き残って子孫を残すことで、ある方向に向かって変化が進んでいくというもの
例えば、サイズが大きくなる方向や小さくなる方向
ダーウィンは、自然選択の原理を練り上げた際に、何よりもまず純化選択と方向性選択を念頭に置いていた
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x軸は環境要因、y軸は表現型の変数を表す
安定化選択が作用すると図Bのようにフラットな直線に変化する
安定化選択もキャナリゼーションも発生過程を安定化させるもの
環境の変動や遺伝的な変化(突然変異)が起こったとしても、安定化選択やキャナリゼーションが緩衝作用を及ぼすため、表現型は変化しない この場合、突然変異は表現型に影響を及ぼさないので選択とは無縁
そのため、このような突然変異は潜在的な遺伝的変異(隠蔽変異)として累積し、条件が変化したときには、その後に起こる選択にさらされる可能性がある これが家畜化の初期段階で起こっていること
ベリャーエフによれば、野生のキツネの表現型は、長年にわたる安定化選択によってキャナリゼーションされていた
だが、実験による環境変化で新たな選択体制下に置かれたことで不安定化選択が起こった その結果の一つとして、それ以前の安定化選択により累積していた隠蔽変異が表に出てくることになったのである
この新たに表出した遺伝的変異があったからこそ、従順性を対象とする選択に対して速やかに反応が現れたのだ
タイミングがすべてなのだろうか?
従順性と垂れ耳にどんな関係があるのだろうか
この場合の多面発現それ自体を説明しなくてはならない
この関係をよく理解するためには、従順性と垂れ耳が発達過程でどのようにリンクしているのかを調べる必要がある
このような変化の多く(垂れ耳や巻き尾など)は、子ギツネに(そして子オオカミにも)典型的な形質であることに注目したい
行動的な変化の多くについても同じことが言えるだろう
野生の子ギツネは野生の成体ほど人間との接触を嫌わない
このHPA系はストレス反応の基礎となるもの
成熟してストレス反応が生じるようになると、キツネは人間に対して(さらに他のキツネに対しても)恐怖や攻撃性を強く示すようになる
これはイヌ科の他の動物にも当てはまる
ストレス反応には複数のホルモンが関係している
ストレスホルモンの一種である糖質コルチコイド(コルチゾルを含むホルモングループ)は、従順性を対象とする選択によって特に変化していた 従順なキツネは養殖場のキツネよりも明らかにコルチゾルのレベルが低かった
ということは、家畜化されたキツネやイヌの成体がもつ形質の多くは、発達過程において何らかの出来事のタイミングが変わったことに起因するのかもしれない
ヘテロクロニーには基本的に二つのタイプがある
祖先には存在しなかった新たな形質が成体になって出現する
ペラモルフォーシスには三つのタイプがある
発生・発達の開始時期が早まる
発生・発達速度が早くなる
発生・発達の終了時期が遅れる
発達段階初期の特徴である形質が成体になっても保持されるというもの
養殖場のキツネの実験で観察されたタイプ
ペドモルフォーシスには三つのタイプがある
発生・発達の開始が遅れる
発生・発達速度が遅くなる
発生・発達の終了時期が早まり、性成熟が早くなる
従順なキツネは養殖場で育てられたキツネよりも1ヶ月ほど早く性成熟に達していた(プロジェネシス)
同時に、HPA系の発達が遅滞あるいは減速した(ネオテニーや後転位)
同様の遅滞が耳や尾、頭骨の発達でも起こった
人間の意図を読み取るという一見不可解な能力でさえも、これまた遅滞した子どもの形質が現れただけかもしれない
子ギツネは母親のふるまいによく注意を払うものなのだ
そうすると、従順性を対象とする選択によって、ギンギツネの身体的および心理学的な発達が全体的にかなり遅くなり、性的発達が加速したようだ
結果として、従順なキツネの成体が、従順ではなかった祖先の初期発達段階に似てきたのである
変化した遺伝子はごくわずかだったかもしれないが、その遺伝子が発達速度に影響を与えるいくつかの重要なホルモンを制御する役割を持っていた可能性がある
候補となる遺伝子の追求はごく最近始まったばかりである
特に協調しておきたいのは、非攻撃性を促進する遺伝子がイヌのゲノム内で相同の位置にマッピングされたが、その遺伝子は他の多数の遺伝子と複雑に(他の遺伝子に対する上位遺伝子として)関わっているということ
従順なキツネと攻撃的なキツネには、前頭前野の遺伝子発現において多数(335)の相違が見られる 特に興味深いのは、ストレス関連ホルモンの制御に影響する遺伝子、あるいは遺伝子ではない(タンパク質をコードしていない)DNAの塩基配列 この遺伝子の多面発現の傾向がきわめて高い理由の一つは、POMCが何通りにも切断され、発現する細胞のタイプによって異なるペプチドが生成されることだ
そのせいで、従順性と被毛の色につながりができるのかもしれない
ベリャーエフは慎重にも、従順性のキツネとは逆のキツネの系統も作った
年月の経つうちに、こちらのキツネたちは人間に対してますます敵対的になっていった
人間が近づくと歯をむき出してうなり、大声を上げて飛びかかってくるというありさま
実質的には野生のキツネ以上に野性味の強いものになった
強調しておきたいのは、この進化的な変化のすべては、おそらく新たな突然変異なしで起こったのだろう
従順性を対象とした選択の成功は、むしろ「既存の遺伝的変異」と進化学者が呼ぶもの、つまり実験開始時にすでにキツネの集団の中に存在していた遺伝的変異だけによって達成されたのである しかし、選択を行う前はこの遺伝的変異の多くは隠蔽されており、自然選択の網目にはかからずにすんできた
ベリャーエフの見解では、以前の安定化選択により累積していた隠蔽変異が、実験開始後に人為的な不安定化選択によって表に出てきたのだという
この新たに表出した遺伝的変異があったために、従順性を対象とした選択が突然変異なしに成功したのである
神経堤細胞
この仮説はヘテロクロニーの役割を踏まえる一方で、神経堤細胞(NCC)というある重要な幹細胞群を重要視している この細胞群は発生過程のかなり初期段階に見られる
頭から尾の方まで、神経管が閉じる前の神経堤の部分に出現する
神経堤細胞は体の様々な場所まで移動していき、様々な種類の前駆細胞に分化する
その中には、家畜の表現型として現れる多くの形質の発達に関わる細胞も含まれている
たとえば、尾や耳の軟骨、顎や歯の組織を形成する細胞や、色素細胞(メラノサイト)、副腎を形成する細胞など この観点からすると、従順性を対象とする選択による家畜化は、最初に形成される神経堤細胞数の減少、移動能力の低下、増殖力の低下などを引き起こすと考えられる
そのため、小さめな垂れ耳や短めの尾、短い鼻づら、小さめの歯、色素脱失、さらには副腎の萎縮とコルチコイドの生産量の低下など、多くの関連する変化が生じる
仮説の提唱者はまた、神経堤細胞の移動に生じる異常を一年中繁殖可能になることと関連づけてもいるが、この根拠はやや説得力に乏しいと私は考えている
性成熟が早まることについては何も述べられていない
神経堤細胞の発生と移動に影響を与える遺伝子は多数ある
重要なのは、そのうちの一つあるいは複数の遺伝子の様々な組合わせが、家畜に見られる表現型の原因となっている可能性があるということ
そうすると、遺伝的変化は種によって異なるはず
この新たな仮説はペドモルフォーシス仮説と同様に、共通した発達経路に基づく多面発現の果たす役割を強調している
しかし、そこで働いているメカニズムの解明については、神経堤細胞仮説のほうがペドモルフォーシス仮説よりももっと進んでいる
さらに神経堤細胞仮説を用いれば、分断選択によって表出する隠蔽変異がどの遺伝子によってもたらされているのか、候補を絞り込むことができる 分断選択: 既出の不安定化選択とほぼ同義。集団内の平均的な個体が正常化選択を受け、結果的に表現型が複数に分かれるような選択 また、神経堤細胞仮説はヘテロクロニー仮説と矛盾するものではなく、おそらく補間的なものだが、ヘテロクロニーの役割をそれほど重要視していない
キツネの家畜化から見えてくるオオカミの家畜化
キツネとオオカミはイヌ科の系統樹の中で互いに両端に位置している
両者は家畜化に関わるある点で顕著に異なっている
キツネの成体はほとんど単独制なのに対して、オオカミの成体は高度に社会的 社会的な哺乳類は家畜化がたやすいと考えられることが多い そうすると、キツネの家畜化はオオカミの家畜化よりも成功させるのが難しそうだ
その点を考慮すると、ベリャーエフらがペットとしてのキツネを作り出したのは、ますます驚異的である
キツネからイヌ的キツネへの変化がオオカミからイヌ的オオカミへの変化と類似していることにも注目したい
どちらの場合も特に垂れ耳から短い鼻づらに至るまで、従順性を対象とする選択の副産物が生じている
このように類似した反応が起こるのは、キツネとオオカミの発生・発達過程が共通していることを根底で反映している
しかし、家畜化された他の哺乳類でも、この副産物の多くが生じている
中には系統樹上でイヌ科からかなり離れたものもいる
それどころか、家禽や魚類にさえ同様の現象が見られる
実際、どの動物でも同じ変化が揃って起きているので「家畜化の表現型」と呼ばれている さらに言うならば家畜化の表現型は家畜動物だけの特徴ではない
私たち人間にも家畜化の表現型が現れている
ほとんどの哺乳類で、家畜化のときに初期段階で重要な役割を果たしている